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札幌高等裁判所 昭和50年(う)252号 判決

主文

原判決を破棄する。

被告人は無罪。

理由

本件控訴の趣意は、被告人および弁護人横路民雄提出の各控訴趣意書に記載されたとおりであるから、これらを引用する。

所論は、いずれも、原判決は、被告人の捜査段階における供述調書その他原判決挙示の証拠に基づき本件現住建造物放火罪を認定し被告人に対し有罪を言い渡しているけれども、(一)右供述調書はいずれも虚偽の自白を内容とするもので信用性がなく、また(二)事件当時、犯行現場付近で被告人を目撃した旨供述する山松盛の証言にも矛盾があって信用性に乏しく、かつ(三)犯行現場の残焼物や現場付近で発見された一升びん(以下本件一升びんと称す)からそれぞれ検出されたガソリンが被告人の自白その他の証拠と符合しないなど原判決の事実認定には多くの疑問点があり、到底合理的な疑いをいれない程度に有罪の立証がされたものとは認めがたいから、原判決は、証拠の価値判断を誤り重大な事実の誤認をしたものである、というのである。

そこで所論にかんがみ、原判決の事実認定の当否につき以下項を分けて判断する。

一  原判決の認定した事実

原判決の認定した事実の要旨は、

「被告人は、昭和四八年ころから、札幌市豊平区月寒東五条一一丁目所在の味金食堂こと工藤金治方に客として出入りするうち右工藤と知り合い、金融業をあわせて営んでいる同人から金員を借り受けるようになったが、その後貸借関係などをめぐって同人と不仲になり、その果ては、始終いさかいを生じ、互いに電話で怒鳴り合ったり、相手の家に行って罵声を浴せたり、戸を足で蹴るなどのいやがらせをし、さらには力づくの喧嘩をするようになり、昭和五〇年四月には被告人が刃物で工藤を傷つけ、同年五月末頃には被告人が工藤から散散殴られ負傷させられるなどの事態に立ち至っていた。このような経過のすえ同年六月八日夜、被告人が同区月寒東五条一一丁目只野忠義方住居で寝ていたところ、またもや、右工藤から押しかけられ、朝鮮野郎、貧乏人、出て来いなどと罵られるに及んで憤懣やるかたなく、この上は、工藤方に火をつけて、うっぷんをはらそうと考え、同月一〇日午前五時頃過ぎころ、前記住居地の只野忠義方雑品置場から、廃品のドラムカンや一斗カンに残っていたガソリン類を集めて入れてあった一升びんを持ち出して前記工藤方に出かけて行き、同日午前五時五〇分ころ、同人方西側玄関ガラス引戸の左側下部分の、ガラスの壊れたあとに張りつけてあったプラスチック製板(風防)を手で押しつけてすき間を作り、そこから右一升びんに入っていたガソリン類約五合(〇・九リットル)を右玄関内の板張り床面に流し込んだうえ、これに所携のマッチで点火して火を放ち、右玄関内の壁・天井などに燃え移らせ、よって、右工藤らが現に住居として使用している同人所有の木造モルタル二階建店舗兼住宅一棟(総床面積八四・二四平方メートル)のうち右玄関の壁・天井など約二六・六平方メートルを焼燬した」

というのであって、その骨子は本件公訴事実と同一である。

二  被告人の捜査官に対する自白の証拠的意味

まず証人稲垣博の原審公判廷における供述および司法警察員森弘元作成の捜査報告書によれば、昭和五〇年六月一〇日午前五時五〇分ころ、前記工藤方で原因不明の火災が発生し、鎮火と同時に放火容疑で現場の実況見分その他の捜査が開始され、被告人が日頃被害者工藤と険悪な仲にあったことおよび出火直前ころ被告人を現場付近で見かけた旨の目撃者の供述があったことから、捜査の当初より容疑者として被告人の名前が浮び上っていたところ、翌一一日午前一一時ころ、被告人から北海道警察本部通信課まで「昨日の工藤方の火災は自分がやった」「話のわかる刑事を午後八時までに自分のところによこして欲しい」旨の一一〇番の通報があったため、同日正午ころ、警察官三名が被告人の居住先(只野忠義方)に赴いて、同所で被告人を緊急逮捕し、札幌東警察署まで引致したことを認定することができ、一件記録によれば、被告人は同警察署において直ちに工藤方西側玄関に火を付けて逃げた旨弁解し、その後同日から同月二八日にかけて引き続き前後九回にわたり、司法警察員および検察官に対し、日頃の工藤の仕打ちに対する憎悪・えん恨から、同人方に放火しようと考え、火災当日朝五時ころ起床して、只野方雑品置場にあった油入りの本件一升びんを持って工藤方西側玄関まで赴き、同所のガラス引戸のプラスチック製板を動かしてすき間をつくり、そこから一升びんの油を玄関内に流し込み所携のマッチで油に火を付け、放火したあと直ちに只野方まで逃げ帰ったこと、放火の際同びんを現場付近に投げ捨てたことをそれぞれ一貫して自白していることが認められる。

そして、被告人が工藤方西側玄関内に一升びんの油を流し込んでマッチで火を付けたという放火の実行行為について直接これを認むべき証拠は、直接これを目撃した証人もない本件において、一件記録にあらわれたすべての証拠を検討しても、被告人の右自白を除いては他に存在しないものと認められる。

そして、被告人作成の呼出願と題する書面によれば、被告人は、同年六月二八日現住建造物放火罪で起訴されたあと、同年七月一六日付で先に被告人を取調べた検察官宛に「一日も早く申し上げたく思いつつ今日まで遅くなったことをお詫び致します。放火事件につき私は何もかかわりのない真実を検事殿に申し上げたく思って居ります。御呼出し下さる様御願い致します」旨記載した書面一通を差し出し、札幌地方検察庁事件係において同日付で右書面を受理していることが認められ、さらに一件記録によれば、被告人は原審第一回公判(同年八月一四日)の被告事件に対する陳述において「事実は全面的に違う。自分が火を付けたことはない」旨述べて前記自白を根底からくつがえすに至り、以下原、当審における各公判を通じ一貫して本件放火の事実を否認し、犯行時間ころは只野方に居り、工藤方までは行かなかった旨の供述を繰り返していることが認められる。

右の次第で、被告人の実行行為に関する唯一の直接証拠である被告人の捜査段階における前記自白の真実性・信用性については、特に客観的な状況証拠、放火の手段に供されたとされる現場で発見された証拠物、鑑定の結果等に照らし、慎重な検討を必要とする。以下所論にかんがみ順次考察する。

三  被告人の右自白にそう積極的証拠の検討

(一)  まず被告人の自白内容に、放火犯人でなければ知りえない特殊な状況が含まれていたかどうかを考察する。

(1)  証人稲垣博の原審公判廷における供述によれば、前述のように、被告人から自首の電話があったあと、稲垣は黒田、佐藤の両刑事を伴って被告人方に赴き、両刑事を屋内に入れて、被告人から事情聴取をさせると共に稲垣自身は屋外で見張りをしていたところ、三〇分くらいして出て来た黒田刑事から、昨日の放火はここ(只野方)にあった一升びんを持って行って火を付けた旨被告人が申述しているとの報告を受けたので、直ちに被告人を緊急逮捕するように指示を与えた旨供述していることが認められる。他方、被告人は、この点について、当審公判廷において、逮捕に来た二名の刑事からこの時点で放火のことは尋ねられなかった、ただ刑事は指定時刻より前に逮捕に来たことについて弁解していた旨供述し、前記稲垣の証言内容とはっきりくい違いをみせている。いずれにしても、右稲垣の供述によっては、被告人が両刑事に対し、進んで本件一升びんを放火の用に供した旨自供したものか、あるいはすでにその前日本件一升びんが証拠物として領置されていることでもあり、両刑事において暗示的ないしは誘導的に一升びんのことをもち出したものか、必ずしも明らかではなく、稲垣の右供述は、いまだ被告人の自白の真実性を裏付けるに足りないものといわねばならない。

(2)  次に証人兼安勝己の当審公判廷における供述によれば、被告人は、逮捕以後、札幌東警察署において、兼安巡査の取調を受け、その取調の過程で前述のように本件放火を自白したものと認められ、またその際同巡査の取調が特に誤導的、誘導的であったものとまでは窺われない。しかも被告人の自白の一部とりわけ(イ)只野方にあった油入りの一升びんを放火に利用したこと、(ロ)工藤方西側玄関のプラスチック製板を動かして油を流し込んだこと、(ハ)右一升びんを犯行現場付近の草むらに投げ捨てたことに関する供述は、いずれも只野忠義の供述や放火現場の状況と一応符合し、自白の真実性をそれなりに裏付けているもののごとくである。

しかしながらまず(イ)については、なるほど被告人は、当審公判廷において、兼安から取調を受けた際放火現場まで油を運んだ容器がポリ容器かまたびんのいずれであったのか尋ねられ、みずから一升びんである旨答えたものと供述しているので、この点の自白の内容は、犯行現場で領置されたびん(本件一升びん)とその大きさおよび形状においていずれも符合したわけであるが、一升びんは油などを入れる容器としては格別特殊なものではなく、しかも日頃油の入った一升びんが只野方廃品置場に置かれていたというのであり(只野忠義の原、当審における各供述)、その事実は被告人も十分了知していたのであるから、被告人が兼安から前述のように尋ねられ、油の容器として一升びんに思い至ったとしてもあながち不自然ではない。してみれば、被告人の自白の一部とその他の証拠との間に右のような符合があったからといって、これを直ちに被告人の自白の真実性を肯認する決め手とすることはできない。

(ロ)について検討するのに、この点につき被告人は、原審第一回公判において、問題の証拠物であるプラスチック製板の証拠調にあたり、被告人が本件の一〇日くらい前、工藤に話があって同人方へ行った際、同人が留守だったので西側玄関の方に回ってみたら、そこが風防ガラスになっているのに気付いた旨供述しており、また原審第三回公判においても同旨の供述をしていることにかんがみれば、被告人は、工藤方の西側玄関のガラス引戸に一部プラスチック製板(風防ガラス)がはめ込まれていたことをあらかじめ知っていたものと窺われる。また被告人は当審公判廷(第七回)において、事件当日朝、只野方の庭で前夜来放置していた雑品の片づけをしていたところ、付近で隣近所の者が集って工藤方の火事の話をしており、その際火事は工藤方裏口(西側玄関)からの放火らしいともれきいた旨供述している。右供述の信用性については、後述のように疑問もあるが、さりとて右供述を明確に虚偽である旨断定するに足りる証拠もなく、それを別としても、被告人が本件放火の発生後逮捕されて取調を受けるまで一昼夜以上時間が経過しているので、その間に、被告人が従来からの工藤とのいきさつもあって本件火災に強い関心をもち、火災の詳細についてなんらかの方法で知識を得たことは十分推測されるところである。してみれば、被告人のした工藤方西側玄関のプラスチック製板を動かして油を流し込んだ旨の供述の内容も、放火犯人のみが知り得る特殊な状況であるとはいいがたい面があり、結局、被告人の自白の真実性を裏付ける決定的な証拠とは認められない。

(ハ)について検討するに、証人兼安勝己の当審公判廷における供述によれば、同人は被告人を取調べる前すでに本件一升びんの遺留されていた状況について現場の実況見分を担当した末永典清から予備知識を得ていたこと、兼安の方から被告人に対し油を流し込んだあとびんをどこへ投げ捨てたか尋ねたところ被告人が西側玄関付近のすこし草が生えているあたりに投げた旨答えたことをそれぞれ供述しているものと認められる。他方、被告人は、当審公判廷において、兼安から一升びんをどう始末したか尋ねられ、道路の向うへ投げ捨てた旨答えたところ、それでは納得してもらえず、さらに聞き返され、あとは同人の誘導するところに迎合して答えたものと供述しており、兼安はそうした応答があった事実を否定している。以上のような対立する証拠が存在することにかんがみれば、その他の証拠関係の吟味を必要とし、一升びんを犯行現場付近に投げ捨てた旨の自白が他の証拠と一致することを決定的な証拠として、これを被告人の実行々為に関する自白の真実性を立証する決め手とまで解することはできない。

(二)  次に山松盛の原審および当審における各証言について考察する。

証人山松盛の原、当審における各供述によれば、同人は、本件火災当時被害者工藤方の近くに住んでおり、被告人が工藤との間で傷害事件を起したことから被告人を見知るようになったが、たまたま本件火災発覚直前の当日朝五時四五分過ぎころ、同人方東側道路に面した便所の窓からなにげなく外の道路を見ると、工藤宅の方向から右道路を南下して来てちょうど右便所の前の三差路をそのまま左折し東の方へ歩いて行った男があり、その人物が被告人であった旨の証言を原、当審を通じ一貫して繰り返していることが認められ、右証言は、山松が問題の人物を目撃した時間的、場所的状況からみて、その信憑性いかんによっては、被告人の前記自白の真実性を裏付ける有力な補強証拠になると考えられる。

そこで山松証言の信用性について検討するのに、被告人の前記自白(昭和五〇年六月一六日付司法警察員に対する供述調書および同月一九日付検察官に対する供述調書、以下被告人の司法警察員に対する供述調書を警面と、検察官に対する供述調書を検面とそれぞれ略称する)によれば、被告人が工藤方に放火したあと只野方まで逃げ帰る道順について、警察および検察庁を通じいずれもその経路を図示したうえ、工藤宅の方から、前記山松方建物の東側道路を南下して来て右建物(便所)の前でもその三差路を東へ左折しないでそのまま南進した旨供述しており、被告人の供述する道順が山松の目撃した人物の立ち去った経路とはっきりくい違っていることは明らかである(なお被告人は、その後同月二三日付警面および同月二六日付検面において、いくぶんびっくりもしたのであるいはいつもの道路と間違って右三差路を東へ左折したかも知れないが、その東方道路がいつも通る道でないことに気付いて、逆戻りしたのではないかと思う、などとか、火を付けたことで気が落ちつかなかったので三差路を東へ左折したかも知れないが、よく覚えていない、東へ左折していないとはいいきれない、もし左折したとしてもいつも通る道路と違うので直ぐ引き返していつも通る道路を通って只野方へ帰ったと思う、などと、一見山松証言に符合するように前記供述を変更している。しかしながら、山松証言によっても、問題の人物は東へ左折して真直ぐ歩いて行ったものと窺われ、山松もこの人物が引き返して来る状況は目撃していないうえに、放火罪を敢行し多少なりとも気が動転して落ちつかない気分にあり、早急に犯行現場を立ち去ろうとしている者が、普段通り慣れた道路でないという理由だけで、一度左折して進んだ道路を再び引き返してまで日頃通り慣れた道路の通行に固執しなければならないものか、不自然であって、右変更後の供述はたやすく採用することができない)。

そしてまた山松は、問題の人物の服装について、原審公判廷において、その公判当時たまたま被告人が着用していた茶色のジャンパーを指差して同一のジャンパーを同人物が着用していた旨証言し、当審公判廷においてもほぼ同旨の証言を繰り返している。しかしながら被告人の自白によれば、被告人は犯行当時小さいチェック模様のオープンシャツないしは長袖のカーディガン(灰色)を着用していたものと供述し、右山松の証言とくい違っているうえに、証人大沢清の当審公判廷における供述によれば、同人が、昭和五〇年四月ころ、被告人を自宅に宿泊させた際、被告人所有の前記ジャンパーを預かり被告人のためこれをクリーニングに出したが、同年五月になって、クリーニング屋から右ジャンパーが届けられたあとも、そのまま自宅にこれを保管していたこと、その後本件が発生し被告人が逮捕されたのち、被告人の友人を介して前記ジャンパーを拘置所内の被告人の手元まで差し入れたことがそれぞれ認められ、したがって被告人が本件火災当時前記ジャンパーを着用していなかったことは明らかであるから、山松の前記服装に関する証言はその人物が被告人であるとする限り矛盾することは明らかである。検察官は、この点について、山松は問題の人物が被告人である旨確信しその同一性についてなんら疑念を抱かなかったため、被告人を目撃した事実を強調するために、もともと記憶の定かでない犯人の服装について断定的な証言をするに至ったもので、この点の記憶違いはさほど重視するにあたらない旨主張する。なるほど、山松証言によれば、同人がこの人物を目撃した時間はごく短く(約三〇秒以内)、しかもこの時点ではもちろん放火犯人と意識して観察したわけではなく、なにげなくその人物の姿を眼にしたというのであるから、その服装についてまで確たる記憶が残らなかったとしてもあながち不自然ではなく、その一事をもって直ちに山松証言の信用性を否定するのはもとより相当でない。しかしながらもともと記憶の定かでない事柄について、はなはだ断定的な供述を行った山松の供述態度は問題であって、そうした断定的な供述態度はひとり犯人の服装の点のみならず、犯人の同一性の点に関する同証人の証言の信用性を判断するにあたっても、斟酌されなければならない。

そして以上の諸点に加えて、山松は前述のように問題の人物を短時間になにげなく眼にとめたにすぎないこと、したがってその人物の顔を正面から確認したわけではなく、せいぜいその横顔と歩き方、姿恰好から被告人と認めたにすぎないこと、山松は捜査段階においてはその人物の顔ははっきり見なかったが後姿から被告人だと判明した旨供述しながら、当審公判廷においては、かえってその記憶を鮮明にさせ、被告人の横顔をはっきり見た旨証言するなどその供述に変遷がみられることなどにかんがみ、その他の関係証拠をも合わせ考えると、問題の人物が被告人に間違いない旨断言する証言は、もとよりそこに故意に虚偽の供述を繰り返している形跡は窺われないにしても、単に被告人らしいとの疑念を抱いた程度の人物について、これを被告人である旨断定しあるいは被告人である旨即断して証言しているのではないかという懸念を払拭し去ることはできない。

したがって、山松の前記証言の信用性にもなお疑問が残り、自白の真実性をおよそ疑いをさしはさむ余地がないまでに補強するものとまではいいがたい。

(三)  最後に本件火災直後の被告人の言動について審案する。

証人只野忠義の原審公判廷における供述によると、本件火災当日朝六時ころ同人が起床してみると茶の間にいるはずの被告人の姿が見当らなかったが、その後五分ないし一〇分くらいして被告人が外から入って来た旨供述していることが認められ、また証人只野てつえも、原審公判廷において、火災当日朝六時ころ起きたとき被告人と夫忠義も起きており、そのときすでに被告人は衣服を着用していたので、外から帰って来たように感じた旨供述していることが認められる。

したがって、本件火災直後に、被告人が衣服を着用して外から只野方茶の間に入って来たものと認められ、この事実は被告人の自白の真実性を裏付ける一つの間接事実であるといわねばならない。ただ他面、右忠義は、右のように外から茶の間に入って来た被告人に対しどこへ行っていたのか尋ねたところ、被告人は物置を片づけていた旨答えたこと、被告人は只野方で働いていた当時気がむけば、朝早く起きて物置を片づけに行くことがしばしばあったこともそれぞれ供述しており、被告人もまたこの点について、当日朝五時ころ起き茶の間から只野方の離れ(物置)の二階に上り、焼酎を飲み、しばらくして茶の間に帰ったら只野夫妻が起きていたとか、茶の間に寝ていたが、午前五時ころ起き雑品置場で働いたのち物置二階に行き焼酎を飲んで茶の間に戻った、そのとき只野夫妻はまだ寝ていたなどと種々弁解をしており、検察官指摘のように被告人のこの点の供述には様々な変転があってにわかに信用しがたい節もあるが、さりとて右弁解がいずれも明らかに虚偽であると断定するだけの証拠も見出しがたい。してみれば、前認定のように、本件火災直後すでに衣服を着用した被告人が外から只野方茶の間に入って来たことも、被告人の自白の真実性を裏付けるに足りる決定的な事実とまではいえない。

四  自白の真実性を疑わせる矛盾点―放火の実行行為に関する自白と証拠物、鑑定結果との関係―の検討

(一)  本件一升びんおよび残焼物から検出されたガソリンと被告人の自白との結びつき

被告人の捜査官に対する各供述調書によれば、被告人は、司法警察員および検察官に対し、被告人において、本件放火事件の前に、只野忠義が廃品回収して来たドラムカンや一斗カンに少量残っていた油を本件一升びんに少しずつ集め、ストーブで電線の被覆その他の物を燃やす際に燃え易くするのにその油を利用していたこと、被告人は、事件当日朝、油が五ないし七合くらい入った本件一升びんを持って、工藤方へ行き、その西側玄関ガラス引戸に作ったすき間から、玄関内に右油をすべて流し込んでマッチで火を付け、本件放火に及び、その際一升びんを犯行現場付近に投げ捨てて逃げ帰ったことをそれぞれ自白している。

そして被告人が右のように一升びんに集めた油の種別については、被告人の自白には後記五の(二)のような変遷があって、その種類をいずれとも明確にしていないうえに、被告人が原審公判廷において、「自分はガソリンと石油とはっきり区別がわからない」とか、「自分は重油を灯油というのかと思った」旨供述していることを考え合わせると、本件火災前、被告人において、灯油、ガソリン等の油の種別に関し、さほど正確な知識を持ち合わせていなかったものといわねばならない。そしてこの点について直接ドラムカンの回収に携わっていた只野忠義は、原、当審公判廷において、廃品として回収して来たドラムカンには主として灯油が残留している場合が多かったこと、売主に尋ねたりまたドラムカンに残留した液体を調べるなどしてガソリンが残留していると判明したドラムカンは危険防止のため回収しない建前にしていたので、ガソリンの残っているドラムカンを廃品置場まで持ち帰ることは実際にはほとんどなかったことを供述しており、また廃品回収にあたり忠義と同行することが多かった弟の征義が、原審公判廷において、検察官主張のように回収するドラムカンが何に使用されていたかあまり確認していなかった旨証言する反面、ガソリンの入っているようなドラムカンは持ち帰らない旨供述していることにかんがみれば、忠義が回収したドラムカン等に油が残留していても、それはほとんどの場合が灯油であって、ガソリンが残留しているドラムカン等を回収して来るのは、ガソリンが残っているのに気付かないで誤って持ち帰ったときのようなきわめて例外的な場合であったと認められる。

そうだとすれば、前述のように被告人において忠義が回収して来たドラムカンや一斗カンから一升びんに少しずつ集めた油の種類は、そのほとんどすべてが灯油であったと考えられ、その中にたまたま少量のガソリンが混在することがあっても、それはごく例外的な場合であったと考えられる。そしてこのことは、被告人の自白によれば、被告人が、廃品回収された電線の被覆その他の物をストーブで燃やす際に一升びんの油をかけて燃え易くしていたというのであるが、一升びんに入った油をこうした方法で利用するのは、その油がガソリンの場合には、ガソリンが灯油に比べてはるかに引火性の強い液体であるから、はなはだ危険であって、被告人が通常そのような危険な方法で廃品を処理していたものとは考えがたいことからも、十分首肯しうるところである。

ところで司法警察員作成の鑑定嘱託書謄本、長谷川長俊作成の鑑定書および同人ならびに末永典清の当審公判廷における各供述によれば、本件火災の消火活動が終了したあと同日午前八時から所轄の警察官により火災現場の実況見分が開始され、ほどなく前記玄関外の階段南側約八〇センチメートルの草むらにその口を東向きにして横倒しになっている本件一升びんが発見され、そのびんの底に多少濁った揮発性の油の匂いのある液体約二〇〇ミリリットルの残存が認められたこと、そこで係官において右一升びんおよび玄関内の床面から採取したチラシ紙、ダンボール紙、カーペット布地各若干量の残焼物をそれぞれ領置して、前記液体約二〇〇ミリリットルおよび右残焼物三種について、それぞれ油類の含有の有無およびその種別の鑑定を嘱託し、犯罪科学研究所技術吏員においてその鑑定を実施したところ、残焼物三種については〇・四ないし三・六ミリリットルの油質が検出されたものの、前記液体から得られた油質は測定が困難なほどごく微量(〇・一ミリリットル以下)であったが、なおその各検体の匂いとこれらについてそれぞれ行った紫外線吸収スペクトル検査によれば、これらの油質はいずれもガソリンであると判定され、結局、右鑑定によっては各検体に灯油の存在を確認するまでには至らなかったこと、火災発生後証拠保全として行なわれた実況見分調書中各検体についていずれも灯油臭のあるものとした記載は鑑定の結果とは矛盾し明らかに正確性を欠くものであったことがそれぞれ認められる。

してみれば、本件放火の現場から採取された残焼物および現場付近から発見された本件一升びんには油質としてガソリンが残存していたものと認められ、本件全証拠によるも他にガソリン類が用いられたことを認めるに足りる客観的な証拠がなく、結局本件放火の用に供された油はもっぱらガソリンであったと認めざるをえない。しかるに、前述のように被告人の自白および只野忠義、同征義の各供述によれば、被告人が一升びんに集めたうえ、本件放火の用に供したとされる油は大部分が灯油であったと考えられ、この点において、被告人の自白と、現場から発見された本件一升びんや残焼物から鑑定の結果検出された放火の痕跡(ガソリン)とは符合しないこととなる。してみれば、被告人の放火材料の入手方法に関する部分の自白はたやすく信用しがたく、このことはひいて放火そのものの自白の信用性にも疑念を生じさせるものといわねばならない。ちなみに放火行為を自首までしながら油の入手方法のみ虚偽の供述をしなければならない事情も窺われない。

なおガソリンの点について補説すると、只野忠義、同てつえ、同征義の各供述によれば、本件火災当時、忠義方の仕事場に二リットルくらいのプラスチック容器に入ったマイテーカー用のガソリンが常時備蓄されていたことが認められるが、被告人の各自白調書を仔細に検討してみても、被告人が右マイテーカー用のガソリンを本件一升びんに入れた事実を示す供述は全く見あたらず、またその他の証拠を検討しても、右事実を窺わせるに足りる証拠も見出しがたい。結局一件記録にあらわれたすべての証拠によっても、火災当時只野方の仕事場に置かれていたマイテーカー用のガソリンを本件放火と結び付けて考えることはできない。

(二)  本件一升びんに約二〇〇ミリリットルの液体が残留していたことと被告人の自白との矛盾

さらに、長谷川長俊作成の鑑定書および同人の当審公判廷における供述によれば、同人が鑑定資料である本件一升びんに残留していた約二〇〇ミリリットルの液体について、水蒸気蒸留を行ったところ、ごく微量(測定ができない位少ない〇・一ミリリットル以下、誤差の範囲内に入る位の量)の油質としてガソリンが検出されたほか、同液体のその他は油質以外のもの、水であると推認され、これに火をつけても燃焼しないことが明らかなのである。

そこで前述のような被告人の自白との関係において、本件一升びんに相当量の水が入った経過ないし事実を矛盾なく解明できるかどうかを検討する。

右の約二〇〇ミリリットルの液体がびんに残留していた点については、当審公判廷において、検察官、弁護人に釈明を求めたところであるが(第七回公判調書参照)、検察官は、(イ)前記水は比重の関係で当初から本件一升びんの下層にたまっていたもので、比重の軽い油がその上層にあったため、被告人が前述のように一升びんの液体を流し込んだ際、上部の油だけが流れ出て下層の水がびん内に残留したものであるか、(ロ)被告人が油を流し込んだあと現場付近に放置した一升びんに、消火の際の消防用水が流れ込んだものである旨主張する。弁護人はびんそのものが本件とは無関係に現場に放置されていた疑いがあり、その内容物は屋根から落ちた水滴ないし雨水もあったのではないかと主張する。

まず検察官が主張する(イ)の場合について考えるに、被告人の各自白調書によれば、被告人は一升びんの油を工藤方玄関内に流し込む状況について、ほとんど例外なく五ないし七合くらい入った一升びんの油を全部流し込んだものと供述しており、またこの場合は、油を流し込む目的が家屋の焼燬にあることを考えれば、その目的にそうようびん内の液体全部を流し込んだとみるのが自然であり、格別一升びんの底に約二〇〇ミリリットルもの油(被告人の認識においては油である)を残さなければならなかった特段の事情は見出しがたいのである。したがって、前記(イ)の主張はまずこの点において、被告人の自白内容と矛盾するものといわねばならない。

さらに本件一升びんの下層に約二〇〇ミリリットルの水が溜った可能性について検討するに、証人只野忠義の当審公判廷における供述によれば、同人が廃品として買受けるドラムカンに残留している液体はそのほとんどが水であったこと、そうした場合ドラムカンに穴をあけ水を抜いて持ち帰ることが多かったことが認められる。また回収して来るドラムカンはいずれも廃品であるからその底に残った灯油などの油に雨水などが混在していた可能性も十分考えられる。したがって、被告人が油を少量ずつかき集める過程で、忠義の回収して来たドラムカンにたまたま残留する水を油と見誤ったりまた油と共に混在する水をそれと知らないで、一升びんに同時に集めた可能性を否定することはできない。そしてまたそうした場合には、比重の軽い油が上層に浮び比重の大きい水がびんの下層に沈静していることもまた検察官指摘のとおりである。

しかしながら被告人の自白によれば、被告人は本件一升びんの油(五ないし七合くらい)を放火の用に供する目的で前記玄関内にそのびんの口を下方に傾けて一気に流し込んだというのであり、そもそも被告人の認識においては、一升びんの液体をすべて油であると考えていたものとみられるから、その際被告人においてびんの上層の油のみをことさら下層の水から選別して流し込む意図は毛頭なかったものと窺われるうえに、ガソリンの粘液性や一升びんの構造とりわけびんの液体の大部分が油であってびんの口を下方に傾けて液体を流し出す際にはその上層の油と下層の水がいずれも流動して入りまじることなどを考えると、被告人が一升びんの液体を全部流し込まないで一部びんの底に残した場合には、本件一升びんが犯行後捜査官によって領置されるまでの間(約二時間強)にある程度の量のガソリンが揮発して無くなっていることを十分考慮にいれてもなお鑑定によって検出されたガソリン(〇・一ミリリットル以下)よりはるかに多量のガソリンが本件一升びん内に残留しているはずである。経験則上、単に一升びんの口を下方に傾けてびんの上層の液体を流し出す方法では、本件鑑定の結果あらわれたように、びんの水と油を截然と区別し、あとにほとんど水ばかりを残す状態を招来させるのは、非常に困難であって、通常あり得ないことであるといわねばならない(なお本件一升びんに入っていた五ないし七合の液体の大部分が水であって、その上層にわずかの油が層をなしていた状態であれば、前記のような方法で上層の油のみを流出させ、あとに約二〇〇ミリリットルの水のみが残る事態も十分考えられるが、それほど少量のガソリンで本件放火の目的が達成されたとは解しがたいうえに、被告人の自白によっても、一升びんの油がそうした少量でなかったことは明白である)。

してみれば、本件一升びんから放火後に検出された約二〇〇ミリリットルの水を、あらかじめ油の下層に溜った水であると考えるのは、被告人の自白の内容と照応せずまた経験則にもそぐわない不合理な推論であって、到底採用することができない。

次に検察官の主張する(ロ)の場合について検討するのに、証人末永典清の当審公判廷における供述および司法警察員作成の昭和五〇年六月一一日付実況見分調書によれば、本件一升びんは消火活動が終了し実況見分が開始されたとき、火元と判断される工藤方西側玄関中央付近からわずか二メートルほど南西寄りの草むらに、そのびんの口を玄関方向に向けて横倒しに放置されていたものと認められるので、消火活動に用いた放水がはね返って若干量の水が本件びんに入った可能性を全く否定することはできない。しかしながら他面、一升びんの口径は小さくまた前記実況見分調書添付写真六、七によれば、同びんは横倒しになっているとはいえびんの口辺が直接草地に接していたわけではないから、草地を伝って水がびん内に流れ込むような状況にはなかったものと推認される。してみれば二〇〇ミリリットルもの消防用水が同びん内に入る蓋然性ははなはだ薄いものといわねばならず、消火の際同びん内に約二〇〇ミリリットルの消防用水が流入したものと認めるのは本件証拠関係のもとでは困難である。

してみれば、検察官の主張する前記(イ)、(ロ)の各場合について、いずれも合理的な疑いをいれない程度に立証されたものとは認めがたく、したがって本件一升びんに相当量の水が入った経過、残留した事実を被告人の自白との関連において矛盾なく解明することは困難であって、このことは、放火の手段方法に関する被告人の自白の真実性に少なからぬ疑問を投げかけるものといわなければならない。そして、ひいてはびんそのものが弁護人の主張するように本件放火と無関係に現場に放置されていたのではないかという反対事実の可能性をも全く否定し去ることのできないという一まつの疑念を完全には払拭しえないのである。

(三)  プラスチック製板(風防)と被告人の自白との関係

証人工藤金治の原審公判廷における供述および司法警察員作成の昭和五〇年六月一一日付実況見分調書によれば、同人は本件火災の前、同人方西側玄関の北側ガラス引戸下部の割れた部分(縦三四センチメートル・横四六ないし六七センチメートル)にガラスの代りにプラスチック製板(風防)を入れこれに内側から細い釘を打ち付けて止めていたことが認められる。そして被告人は、同月一一日付警面において風防のガラス(前記プラスチック製板)を手で押したらすぐ風防がはずれたのでそこから油を流し込んだ旨供述しているところ、前記工藤の供述によれば、風防は上下、左右ともさんにぴったり入っていなかったので手で押したら取れてしまう旨述べているので、風防を手で押したらはずれた旨の右供述は、おおむね工藤の証言と一致しそれなりに信用できるが、その後被告人は、右風防の形状について、同月一二日付警面では「風防を手で一寸押したら中の方へへこんだ、ぶあぶあしていた、へこんだところから油を流し込んだ」と述べ、また同月一三日付検面では「風防を手で押したらぶわぶわしてへこんだ、そのすき間から油を流し込んだ」旨、同月二六日付検面では「風防を軽く手でさわったら下の方がぶわぶわしてひっ込み、手をはなすとまた戻ってくるような風になっていた、びんを風防のところへ押し込み油を流し込んだ」旨それぞれ供述して、明らかに前記同月一一日付警面の供述内容を変更している。しかしながら右プラスチック製板は、火災の熱で一部焼けただれて変形しているとはいえ、本来相当硬質の物体であって、決して手で押した程度でぶわぶわひっこむほど柔軟性のある物質ではない。してみるとこうした風防の形状に関する被告人の変更後の供述は、変更前の供述に比べ、かえって客観的証拠と一致しないこととなるのであって、この点もまた被告人の実行行為に関する自白に全面的な信用性を与えがたいことを示すものである。

(四)  本件一升びんの指紋の有無と被告人の自白との関係

証人末永典清、同兼安勝己の当審公判廷における各供述によれば、係の警察官において、本件一升びんを火災現場付近で領置したあと署内の鑑識係に同びんの指紋の検出を依頼したが、結局同びんからなんら指紋を検出することはできなかったことが認められる。しかして被告人の前記各供述調書その他の関係証拠を仔細に検討しても、被告人が只野方の雑品置場で普段仕事をするときには軍手をはめている旨の供述(被告人および只野忠義の原審公判廷における各供述)の存在が認められるほか、被告人が放火当時特に手袋を着用していた事実を窺わせるに足りる証拠はこれを見出すことができない。また弁護人指摘のように本件一升びんを犯行現場付近に放置して逃げ去った犯人がびんの指紋を拭き取るだけの配慮をめぐらすものとは考えがたい。してみれば消火の際水がかかったとはいえ放火後わずか二時間ほどで直ちに捜査官によって領置された本件一升びんからなんら指紋らしきものが検出されなかった事態は本件放火と被告人の実行行為に関する自白との結びつきがこの点でもまた見出せないことを物語るものである。

五  自白内容の前後不一致について

被告人の自白内容は、前述のようにその大筋において一貫しているかのようであるが、なお看過しがたい重要な諸点について、いくつかの前後不一致を示している。すなわち、

(一)  犯行の直接の動機に関し、被告人は、昭和五〇年六月一一日付警面においては、犯行の前夜に被告人の部屋に工藤が来て朝鮮人、この野郎などと怒鳴った旨述べているのにその後の警面および検面では、工藤が被告人方に来て入口の戸を足で蹴とばして、朝鮮野郎、出て来いなどと怒鳴ったのは犯行の前々夜である旨述べ、工藤の嫌がらせ行為があった日時についてまる一日のくい違いを生じている。

(二)  被告人が一升びんに集めた油の種類について、同月一一日付警面では「石油が約五、六合入っている」、同月一二日付警面では「灯油が六、七合入っている」、同月一六日付警面では「石油かどうか、はっきり覚えていない、油はすこし赤い色をしていたがガソリンであったかも知れない」とそれぞれ供述し、また同月一三日付検面では「びんに入った灯油を流し込んだ」とあり、同月二〇日付検面では「油は赤い色をしており、自分は単に石油だと思っていた」旨述べ、その供述は二転三転し、捜査官の取調毎に変っている。

(三)  マッチで油に点火した態様について、警面では、いずれも油を流し込んだところに擦ったマッチを投げ込んだ旨供述しているのに反し、同月一九日付検面では「マッチを擦って火を付け、戸の下のさんのところへその火の付いたマッチを持って行ったらすぐボーッと燃え上った」旨述べ、マッチを投げ込んだとの供述がマッチを戸の下のさんのところへ持って行ったという供述に変っている。

(四)  犯行時の被告人の服装について、同月二六日付検面では長袖カーディガンで灰色のものを着用していた旨述べているのに、同月二八日付警面では小さいチェック模様のオープンシャツを着ていた旨の供述に変っている。

このように、放火の直接の動機、用いた油の種類、点火の態様、犯行時の服装などについて、捜査官の取調の都度しばしば被告人の供述が変動している点は、十分に留意されなくてはならない。もちろん供述者は常に自己の経験した事実を全部しかもその真実を供述するものとは限らず、故意に虚偽の事実を述べたりまた一部をいんぺいしあるいは思い違いや失念などの理由によって同一事実に関する供述内容を後日変更する場合のあることは容易に考えられるのであるが、本件における被告人の場合には、犯行の翌日すでに逮捕され、直ちに取調を受けているのであるから、かような点について、もちろん明確に記憶しているはずであり、事柄の性質上記憶違いや失念があったものとは考えがたいうえに、被告人は自首までして犯行を自供する心境にあったというのであるから、前記諸点についてことさら虚偽の事実を述べたりまた一部事実をいんぺいして述べなければならない理由ないし必要性は見出しがたいのである。要するに、被告人の前述のような供述の前後不一致は、本件の場合被告人の実行行為に関する自白の信用性についての前記の疑問と相まって、やはりその供述の信用性に消極に働くものといわざるをえない。

六  犯行の動機および被告人が自首するに至った心境について

(一)  犯行の動機

証人工藤金治、同只野忠義の原審公判廷における各供述および被告人の原、当審における各供述によると、被告人は昭和四八年ころから只野方の近所の味金食堂(本件の被害者工藤金治経営)へ客として出入りするようになり、そのうちしばしば工藤から金員を借用するようになったが、昭和四九年ころからは、酒の上で同人と喧嘩をすることが多くなり昭和五〇年四月ころには、両者の仲がこじれ、被告人が工藤から借金を断られたことに憤慨して同人に対し刃傷ざたに及び罰金刑に処せられた事件が発生し、同年五月には逆に被告人が工藤から酒を飲まされたあげく暴行を受け病院通いを余儀なくされるほど痛めつけられるに至ったこと、そのため被告人は工藤に対し深くえん恨を抱きいずれ体調が回復した段階で同人との関係に決着を付けなければならないものと考えていたこと、一方工藤は、被告人が体をいたわって手出しをしないのをいいことに何回となく被告人方まで電話をかけるなどして嫌がらせをしていたことがそれぞれ認められる。したがって、被告人が工藤方に放火する動機は存在していたものと認められ、被告人の自白はその限りにおいては一応裏付けをもったものということができる。

しかしながら、なお被告人の前記自白調書をみると、被告人が工藤方への放火を決意するに至った直接の動機は、火災の前夜ないしは前々夜、工藤が被告人方の部屋ないしは入口までやって来て、被告人に対し朝鮮野郎などと悪態をついたことから被告人において立腹し、次の日には自分の方から押しかけて行って放火してやろうと考えるに至ったというのであって、日頃工藤に対し抱いていた憎悪の念が同人の右のような嫌がらせ行為を引き金にして一気に爆発したものとみるのが自然であるから、放火の直接のきっかけとなった事情について述べる前記自白はそれなりに真実味があるものといえるが、他方工藤は原審公判廷において、火災の日の前夜ころ、被告人方へ赴いた事実は全くなく、被告人方へ行ったのはその前の五月ころである旨述べ、被告人の前記自白と明確にくい違った供述をしている。したがってこの点も被告人の自白の信用性を考慮するにあたり注意しなくてはならない。

(二)  自首するに至った心境

なお、被告人は、前述のように、自首までして虚偽の自白をするに至った心境について、原、当審公判廷において、自己が放火犯人と名乗り出て一たん工藤を喜ばせたうえで真実を述べ自己が犯人でないことを明らかにして工藤を落胆させるつもりであったこと、検察庁の取調において検事が事件に真剣に取り組んでいるのをみて真実を打明けにくくなりつい言いそびれてしまったことをそれぞれ弁解している。

しかしながら、被告人の右弁解のうち、あとで工藤を落胆させる目的で虚偽の自首、自白をしたとの点は、いかにも不自然な弁解であって、たやすく信用することはできない。むしろ被告人の右弁解の前後の供述を仔細にみると、被告人は、前認定のように、本件火災前の同年五月ころ、工藤から相当ひどく痛めつけられたためその仕返しをしようと思っていたが体調が回復しないため結局工藤に手出しできないままじっと我慢していたこと、そのため工藤は図に乗って被告人の許まで何回となく無用の電話をかけるなどの嫌がらせをして来たこと、これに対し被告人としては、腕力に訴えることもできず、さりとてなんら対抗手段に出ないで工藤の嫌がらせを甘受しているだけでは、工藤からますます軽蔑され見下されることになるのをおそれ、たまたま工藤方で放火事件が発生したのを幸いに、後先のことを余り深く考えないで、放火犯人として名乗り出ることで、工藤に対しそれなりの示威を示すつもりであったことをそれぞれ述べているものと認められる。そして一件記録から窺われる被告人と工藤の間柄とりわけ両者互いに自己の腕力を誇示して張り合っていたことおよび前述のように被告人が検察官に対し時機に遅れたとはいえ呼出願と題する書面を提出し自白を撤回しようと計ったこと、そのご原審および当審においては一貫して放火の事実を否認し続けていることなどにかんがみれば、被告人において、工藤に対する対抗意識を募らせる余り、虚勢を張る目的で、後先の考えもなく、右のような虚偽の自首、自白に及んだものの、捜査段階では事の成行き上真実を打明ける機会を失った旨の弁解は、少なくとも、全く了解しえないものではない。

七  結論

そこで、以上述べてきた諸点を総合して考えると、被告人は捜査段階においては自首までして積極的に本件犯行を自供しているうえに、かねがね工藤に対し憎悪、えん恨を抱いており、工藤方に放火する動機は十分あったと考えられること、放火直後と推定される時刻に放火現場の方角から歩いて来た人物を被告人である旨断定する目撃者の証言があること、放火当日朝六時過ぎころすでに衣服を着用した被告人が外から只野方茶の間に入って来たことなどの情況証拠や間接事実もあるので、被告人の原判示放火既遂の事実の嫌疑がかなり濃厚であることは否定しがたいように見える。

しかしながら、すでに詳細に検討してきたように、被告人の自白にはその内容として本件放火の事実に関して犯人でなければ知りえない特別の状況が含まれているとか、客観的事実との間に動かしがたい一致が存在するといったその真実性を裏付けるに足りる決め手となるものは見出しがたく、本件放火の実行行為に関する重要な点において、客観的な事実と相対比してみて符合ないし照応しない部分がいくつかあり、また前後首尾一貫しない点も多々あって、これを信用するにはちゅうちょされるものがある。特に放火の実行に使用したとされる一升びんの油に関する自白が、その他の証拠と相まって、証拠物や残焼物についての鑑定の結果判明したところと矛盾していること、被告人の自白する放火の手段方法によっては、鑑定の結果その他の関係証拠を検討しても、犯人が放火の用に供したと思料される油入り一升びんの残留物から油質としてごく微量のガソリンが検出れたほか相当量の水が存在した事態を矛盾なく解明できないことは、いずれも被告人の本件の実行行為に関する看過しがたい疑問点であるといわなければならない。したがって、これらの疑問点を解明するに足りる証拠のない本件においては、被告人の本件放火についての自白の真実性についていまだ合理的な疑問が残るといわざるをえない。右のように、本件火災が被告人の放火によるものであることを認むべき直接証拠は被告人の前記各自白調書をおいて他になく、右自白の真実性に合理的な疑いをさしはさむ余地が残り、結局本件においては全立証をもってしても、被告人を本件放火既遂の犯人として有罪と断定するにはなお証明が十分であるとはいいがたいのである。したがって冒頭に掲げた原判決の認定事実はその犯罪の証明がないことに帰し、これを有罪とした原判決には判決に影響を及ぼすことの明らかな事実誤認があるといわなくてはならない。各論旨は結局理由がある。

そこで、刑事訴訟法三九七条一項、三八二条に従い、原判決を破棄したうえ、当裁判所においてただちに次のように自判する。

被告人に対する本件放火の公訴事実は、本件全証拠によっても、前記説示したようにその犯罪の証明が十分でないから、刑事訴訟法三三六条後段により被告人に対し無罪の言渡をする。

以上の理由により主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 粕谷俊治 裁判官 高橋正之 豊永格)

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